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富野由悠季の監督術 『聖戦士ダンバイン大事典』ラポートデラックス 富野由悠季 ①

『聖戦士ダンバイン』

※今回は長文のインタビューになるので2回に分けて引用したいと思います。
本格的なハイファンタジーを目指した意欲作である『ダンバイン』ですが、放映されたものは初期構想から離れたものであることを裏事情も含めて明かされています。

「ダンバイン」路線変更の理由

――<略>まず「ダンバイン」が始まる以前、監督は”ロボットもので完全なファンタジーをを作ろうとするのは危険なので避ける”と語ってらっしゃいましたね。確かに作品がスタートした当初はファンタジーとロボット物の中間の路線を進んでいたと思います。ところが2クール(26話)前後からロボット物の作りに移行しましたね。方向を変えた動機と、その転換についてお聞きしたいのですが。

転機というのは、第一話のラッシュを見た瞬間です。”第一話の段階でそんなことを思いつくのはおかしいだろう”という意見があると思うんですが、うん、やはりそのへんは長年やってましたから、こういうことがわかるんです。自分の予定とか自分の気分ではラッシュの気分はとてもいい。けれど商売として対応していった時に、本当にそれで正しいのか――と思った時、とても危機感を覚えたんです。間違いなく一話の出来がよければいいんだけれど、観た時”ああ、あまりにも自分の作りたいものを作りすぎているな”と感じたんです。それは実際に商売として――何だかんだ言っても5時半の時間枠にやる番組として正しいことなのか?と、ちょっとクエスチョン・マークがついたんです。

――たとえば、そうした疑問は絵コンテを切る前にはなかったわけですか?

それはないです。自分の方針というのを信じてますから。現に、そういう意味での仕上がりとしてはとてもいい…とは言わないけれど、まあまあの出来にはなっている。ところがラッシュになるというのは、アニメーターという手が入り、演出も別の人にまかせているわけで、何重かの別のフィルターが入ってくるわけです。そうなってくると、総監督というのはスタッフの人間ながら、その作品をスタッフの中で一番距離を置いて観ることができる立場に立つわけです。かなり観客に近い立場で”楽しめるのか”という第二段階のレベルの気分を、僕はいつもラッシュを見ながら感じている。つまり、毎週毎週観ていくという面白味が欠ける。これは業務として対応していくうえでけしていいことではない。ところが一話のフィルムというのはそれなりに出来上がっていて、なおかつ問題なのは一話のラッシュを観る段階では絵コンテが七話、シナリオは十五話ぐらいまで進んでいる。ラッシュで失敗に気付いても、基本的に2クールは動かせないんです。考えてみればすごいものでしてね。2クールの中頃まで作業が進んでいるので改善策がきかない。作っている世界をどう改善していくかっていった時に、よほどいい形でない限り改善というのはあり得ない。だけどもやらなければいけない。

なぜシーラが少女として登場したのか

――改善策の具体例はどういったものから始めたのですか?

たとえば「東京上空」を一度観てしまったためにバイストン・ウェルへ戻ってからのラッシュを観ると、やっぱり辛い。

――たとえば19話や20話ですか。

そう。やっぱりしんどい。どういうふうにしんどいかと言うと、作品世界をつくるという意味では全然問題ないんです。そうではなく、一般視聴者が興味がわく展開になっているのかどうなのかっていう時に、とてもわかりづらい。その理由もわかっています。始まった当初からの作劇の部分というものが、世界を描くことのみに興味を置いたシフトであったために、個人を描くことをしていないためです。

――そう見えます。

それは物語として、とても面白くないことなんです。個人を通して世界を描く――という本来の構造を持てばいいものが、主人公(ショウ・ザマ)というものを一話でああいうふうに設定してしまったばっかりに、絶対に弾まないんですよね。主人公の性格を変えてまでして手直しが出来るかっていった時に、あまりに硬直した主人公だったため、それをしないで終わってしまった。

――ただ、失礼な言い方をさせていただければ、富野さんほどの人がそうしたシリーズの展開を読み切れなかったのか?という疑問があるんですが。

いや、それは僕の方に全然違う狙い目があったからです。バイストン・ウェルという世界を描きたかったし、それを俯瞰する作品にしたかった。そこでロボット物を利用させてもらおうと思った。そういうとても明確な意図があった。ところがそれを実際やってみたら、”そら見ろ!”となったわけ。つまり、あまりに観念から入りすぎたものというのは、観客にとってとてもわかりにくいものになるじゃないか、――という端的な例ですよ。そしてもし”富野さんほどの…”という言い方をしてくれるとしたら、富野さんほどの人であったために、それが出来ると思ったんですよね。作り手としてのおごりがあったんじゃないのか。その部分を自分自身も回避できなかったという明確な反省もあったらこそ、最低限のロボット物の体裁をとるような作りにしておかなければ、業務としても対応できない。そういう明快な回答があったからこそ、シーラも出しましたし。

――シーラのキャラクターは最初は予定になかったんですか?

はじめからありました。ありましたが、ああいう少女じゃなかったんです。男でした。それも完全な大人を想定してました。シーラ・ラパーナという名前は、あのキャラクターについているからしごく当たり前に見えるけれど、僕の感性でいうとあの名前が老人の名だったらすごく素敵だな、と思う。そういう個人的な好みは一切捨てて、TVに対応しきれるように作った。そして地上話もこんなに増やす予定はなかった。なかったからです。オーラ・バトラーというものの機能論とドッキングさせて世界を描いていく――という当初の予定をまったく無視して地上界に出してしまったために、論理的におかしくなってしまった。当たり前なんです。その当たり前なこともクリア出来なかった。そこまで注意をはらっていくような作り方をしていたら、おそらく番組を一年近く続けることが不可能になる状況も見えてきましたから。作品としてディテールを完結しえないものでしたが、それでも49話までいってしまえた。その対応をしていなければ、そのひどい物でさえもオン・エア出来なかったんです。現にメイン・スポンサーが8月に倒産しましたよね。我々の手元にはその情報は3ヶ月ぐらい前から流れていましたし、そういった対応をしなければメイン・スポンサーを救えないかもしれないという事態になった時に、僕個人の好みなんて所詮絵空事なんだから。

――番組のベースを失うわけにはいかないということですね。

爆発論にしろ「東京上空」ではきちんと”地上に出たら爆発が大きくなる”とやっていました。それも変えた。地上の人とあまり接触しない所で戦闘していけばオーラ・バトラー同士の干渉力が働いて爆発が小さくなる――みたいな、最低限度の条件以上のことはなるべくさわらないようにしてきたから。視聴者から”せっかく地上に出たのに地上とのからみがまるでないですね”と言われる。そこまで対応するための余裕が、スポンサー事情まで含めた上で、なくなってきたというのが事実です。本来なら50話やる予定が49話になったのも、一番の出資者がつぶれて予算がなくなったという単純な理由だし、それもこちら側の業務的な対応が遅れていたら、4本か5本減ったはずなんです。49話を観ていると、急ぎすぎで終わっているのが当然ながらわかります。でも打ち切られていたら、それさえ見えなかったでしょう。これは僕流のやり方なんですが、最低限の条件で何を取るのか?となった時に、49話までの本数を取るためにこうした…という答えは現にあります。

――限られた選択肢の中から一番現実的なものを選ぶしかない…

そう。原因が悪いほど、選択肢は狭くなります。僕がまいた種から出てきた過酷な状況を、今回のスタッフ達はよくも切り抜けてくれた。なぜ僕が路線を変えたかもわかってくれましたし。枝葉末節をかなぐりすてて、最後まで”やっちゃえーッ”ていうかんじで。ある時はスケジュールを含めてガタガタになった時もありました。何度か合同編成の作品も作りもしました。佐々門君などは一本請け負いが原則なんですが、今回は1/5パートだけの請け負いを三、四回やってくれた。本来のローテーションを目茶苦茶に崩した中で、現実への早応力を身につけてくれました。”8月いっぱいで打ち切り!?”という噂も社内で飛びました。そうなると制作が本能的に停るんです。そういう雰囲気が、9月後半から10月にオン・エアされたものに端的に表れている。話数の繰り上げなんかもやってるしね。いつもガンバっているスタッフが沈んでる作画をしているわけ。芝居をちゃんとやっていない。でも責められないのね(笑)”これいつ作画した!?””8月末です””そ、そうかァ…”って。(笑)だから本当にノッてきたのは最後の4本ぐらいなんですよ。

――「ビヨン・ザ・トッド」ぐらいからですね。

そう。ところがその時になってくると、残りの4話の中で”やっぱりこれだけの話があったんだよね”ってわかってくる。そうなると量が苦しい。絵コンテの段階で話の1/4ぐらいを前にズラしたりいろいろ対応する。本当に”作ってるなって感じたのは最後です。

――ストーリー的には、バイストン・ウェルを描写していこうという前半と戦闘の中での個人を描く後半という流れがありますが、前半のキャラクターの布石が後半で描き切れなかったのも確かだと思います。前半にしろ、先程”次週への興味を沸かせる展開になっていない”という話がありましたが、一、二回は楽しいけれど五話ぐらいから視るのが辛くなってきました。十五話は別として、城攻めにしろ十四話までは攻めたり退いたりの繰り返しの展開にならざる得なかったですね。

まだ世界をつかまえていなかった部分で、何とかして人を動かしてしまおうとしたからでしょう。

――富野さん自身も?

でしょうね。その時点では「東京上空」という反面教師が出来ていたからストレートに辛いことがわかって視ている。視聴者も”わかんねえな”という辛さがあるでしょうが、こちらは先のことまでわかってるからもっと辛い。(笑)絶えず足場を組み変えてやってきましたから”ダメな物はダメだ”って言い切れるし。

――後半の大艦巨砲戦の展開も「ザブングル」の失敗を再現したようですが。

わかっています。当たり前です。(笑)「ダンバイン」では細かい表現を修正することも出来た。たとえばこういう言い方ができる。出渕のアホが(笑)僕が思ってるより馬鹿馬鹿しいスケールの艦を作ってるんだから、修正させればいい。でもぼくの思い入れの深い部分を全部はずしていくためには…怨念がこもっていますからね、(笑)それを断ち切っていくために通したんです。「ザブングル」の時とは精神構造が違います。あの時は訳がわからぬままダーッとやってしまいました。今回は全て承知の上でしたからね。だからこれも、辛いわなあ。(笑)

――ファンにとっては、自分の思い入れのある作品を、放映中に監督本人から”失敗作だ”と言われるのは辛いですよね。

でも全部口をぬぐって”俺はこれを信じているからこれでいいんだ”と言い切ったら、最終的にはそういう人達を間違わせることになりません?その方がよほど罪が深い。作り手というのは口をつぐんでしまう人が多いし、もっといけないのはミスに気付かないこと。視聴者を間違いに導いているのに気づかないのはとてもいけないことです。僕はファンの思い入れが間違ってるなんて言ってない。それはいいんです。ただ、その思い入れに対して富野が上手く表現できなかった。というのはまるで違うことなんです。それだけは間違ってくれるなよ。思い入れと作品論は違うことだから。」ですから当初からバイストン・ウェルでやろうとしている狙い目の正しさは徹底的に正しいと思ってますよ。むしろ一番根本的な人の生理の部分に触っているから、バイストン・ウェルというものが間違いなく始まった、と実感できる。「ダンバイン」の最終回でサッとなぞったバイストン・ウェルの構造が圧倒的に正しいのは認知された。モチーフに対してのミスはしていません。ただTVという媒体でやることを間違った。口惜しいけどそれだけは認めざるを得ない。



TVアニメ制作における軌道修正のむずかしさを知らされるエピソードばかりですね。週刊連載漫画のように問題に即応できる体制ではないため、コントロールしきれなかった苦渋がにじみでています。
前作『ザブングル』で留意された問題、「作りたいものを作りすぎている」がボタンの掛け違いにつながったわけですが、その対応は商業監督としての仕事に徹したクレバーな判断になりました。
要約すると、作品カラーを明確にロボットものにする、「東京上空」を前倒しにする、シーラ・ラパーナの設定を少女に変更等。監督自身は辛い採点をつけていますが、結果論としては作品の間口を広げることに関しては成功と言ってもいいのではないでしょうか。「東京上空」を前半で出したことによって主人公ショウの孤立感が戦う決意へのわかりやすい裏付けとしてうまく機能したように見えますし、権謀術数に満ちた展開のなかでシーラの純真なキャラクター像は大変魅力的に活かされており視聴者の支持を得ていました。
わかりやすい活劇、美少女の投入。構造的な問題に対し見ようによっては安易な解答でもありますが、これを作品世界のふくらましにおいて有効に活用してみせるのはベテランの余裕としてみることも出来るかと思います。
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