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富野由悠季の監督術 『機動戦士ガンダムII 哀・戦士編 ロマンアルバム復刻版 (ロマンアルバム・エクストラ (44))』富野喜幸

『機動戦士ガンダム』

16話の「セイラ出撃」から30話の「小さな防衛線」までの15話分を再構成した哀・戦士編。
基本的に編集作業の苦悩が述べられていますが、いまでも語り草になるTV版と劇場版の違いを監督自ら言及したインタビューでもあります。

ふたつ増えたエピソード

じつをいうと、今回の映画版に関してはそれほど期待するような仕上がりにはなっていません。というのは作画的な面でということですが、新たに手を入れて直した量がたいへん少ないのです。その意味で、TV版を知っている人たちは映画を見ていても面白くないでしょうね。けれども、作画よりなによりとにかくいちばん問題だったのは、あれだけの話の量を短くまとめるにはどうしたらいいのか、その構成だったのです。
前作よりもエピソードがふたつぐらい増えているのですが、エピソードが多くなると、どうしても映画全体が散漫になる。どこで散漫にするかが構成上の問題になるのですが、はたしてこれらをうまく集中させることができたかどうか。これはもうみなさんの客観的な目で糾弾してもらうしかないですね。
このようにエピソードだけを並べる劇構成というのは、やはり映画ではないのではないか、と批判する人もいるでしょう。あるいはまったく違う立場の意見として、エピソードの積み重ねから生まれる偶然性が、いままでの劇映画のような単調でルーティン(常例)化した作劇論とは違うおもしろみがある、といってくれる人も現にいます。これに関してはぼくのほうでなんともいえない。ただ、『ガンダム』というストーリーを与えられ、半分以上TV版の絵を使わなければいけないという条件で話をつくれといわれたとき、とてもじゃないけどあれしかできなかっただろうといえるようなところまではやりました。そういう意味での自信というか、よくまぁあれだけの話をいつのまにかこれだけの尺に構成できたな、という脅威はある、それだけです。
だから、いわゆる一般的通念絵いう映画的お話なのかどうかとなると、やはりかなり疑問でしょうね。これについてはもう、それぞれ個人しだいの立場や好みの違いなのだ、というあたりでこちらとしては逃げを打っておきたいですね。

悩まされた
”オデッサ作戦”まで


実際のまとめ作業をやっていくうえでは、”オデッサ”までがいちばん大変でした。TV版でいう”オデッサ作戦”ですが、絵の量はいっさい増えてはいません。むしろ極度に減っているんですけども、メインであったストーリーをどうやってそこに組みこんでいくか、あるいははずしてしまうか。これが最終的にまとまるまでの、そうですねぇ、1ヵ月くらいの作業――こうもってくるとこうなる、ああやるとこうなる、という組みかたをとにかくやりました。画面を見るかぎりではそういうしんどさは見えないように流れているので、なにをいわれてもしようがない。ただ、あれだけの物量を組みこんでいくにはこれしかなかっただろうというのを、ぼくなりにやってみたのです。ぼくの立場で正直にいわせてもらえば、なかなか簡単にはこう思いつかないよ、という気持がありますね。TV版の構成にこだわり過ぎていたら、絶対にできないです。以前の構成を全部否定して新しい構成論にしていきながら、なおかつ雰囲気はそれほど変えないでやってく。これは、批評家たちが結果論だけ見て好きに批評するほど簡単なものではない。このことははっきりいえます。
そういう自負心があるから、ああいう組みかたしかできなかったけれども、そのことについては毫も悪いとは思っていないのです。1本目のような、ややじり長の気分がないだけよほどうまくまとめたと思いますよ。いってしまえば、損得勘定の商売は関係ないんです。こちらの仕事の姿勢としてはこうであると。それで不服だったら映画を見なければいいじゃないか、って(笑)。
それほど映画版の再構成を難しくしているのは、TV版の『ガンダム』が非常に強い自己主張をしているからなのです。これは気に入らないから外す、これは尺がないから外すというように、つくり手側が好き勝手にいじれない構造があった。ひとつひとつのエピソードが、それ自体独立した力をもっている。だからです。最終的にカイとミハルの話が外せなかったのは。考えてみると、『ガンダム』というのはアムロの話だけではない。もうちょっと大きな話を含んでいたのではないか。このことに気がついてようやく、むしろアムロ本位ではない話があってもいいんだとわりきれたのです。
ただ、ぼくのなかでそういう思いつきにいたるまでの時間はとにかくしんどかったです。だから、アフレコ、ダビングとやってきてみてのぼくなりの感想でいうと、なるほど映画版よりもTV版の『ガンダム』のほうはすごかったなぁ、ということにつきます。あちらのほうがよほどおもしろい。つまりTV版でつくろうとしたものには、確実に物語世界の空気があるのです。2時間何分かのなかにそれをおさめようとしたとき、形式がオムニバスだとかは関係なく、フィルムのほうがビシッと自己主張をしておさまってくれた。こうなるともう作者の意図は関係ありません。「オレの顔がなければ『ガンダム』は成立しないんだろ」という、それぞれのキャラたちの問いかけが、はっきりとフィルムに見えていたのです。むしろダイジェスト版にしてみて、このことがよくわかりましたね。前作では、つくり手の意思で作為的に物語をふくらました部分があります。それが今度の映画では、たとえ最初の段階で同じ作為があったとしても結果として違ってきています。フィルム編集が終わった段階でエピソードのはまりかたを見てみると、もう作為などではないのです。
たとえばマチルダならマチルダのブロック、カイとミハルならこのブロックという具合に、自然とみんなおさまっているわけです。こっちも横から見ていて「へぇー」という気持がある。「だったらいいんじゃない。お好きにおやりよ、こっちは見させてもらうから」って。とくにダビングやってる途中から本気になってそう思うようになりました。それでもときどきこちらの作為で、いやここはこんな感じで構成しようなんてやってみるわけです。そうするとメチャメチャになってしまいまして(笑)……。あーダメだダメだ、じゃあ初期のプランニングどおりでいきましょうかというのが何度かありました。

『ガンダム』を語る
主役はキャラ


1本目の映画にしても2本目の映画にしても、TV版で出てきた話の全部を描いていないので舌ったらずで気に入らない、気持ち悪いというファンがいるかもしれない。けれども、あの映画版のフィルムは描かれていない部分もいっしょに含んで存在しているのです。だから、仕上がり、つまり作品としてよく見えているかどうかということは、今回のガンダムの映画版に関してはもう問題外なんです。『ガンダム』という、こういう世界があったのだということを語るフィルムであるのですから。
ぼくの仕事は、実際にフィルムををまとめる作業をやっていくなかで、その辺を用心深く拾い出せるかどうかにつきます。その作業はぼくとカイの話であり、シャアとの話であり、ブライトとの話であり、アムロとの話であり、間にはなんのフィルターもないです。フィルターなんかをつくって話をしたら、監督業というのはスポイルされてしまう。まさに”現場監督”。あくまでフィルム編集に手を貸した程度の、交通整理みたいなものですよ(笑)。
その意味で、今回の劇場版は、TV版でつくった初期の『ガンダム』の世界にまちがいなく近づいています。基本的な構成をやったのはぼくだっていえますが、そういう一個人の意志だけでまとめようとしたら、きっと狭い世界になってしまっていたでしょう。構成論などから見た場合、明らかに自分の意思を捨てたところがありますよ。たとえば「これはアムロの話だ」とこだわってカイとミハルの話を捨てようとしたら、フィルムが「やっぱりいるんだよう」と主張する。
「入れてみて尺におさまらなかったらおれはしらないぞ」「じゃあこうしなさいよ」。
こんな会話をする気分でフィルム編集を進めたのです。するといつのまにかいらない部分はすべて落ちているんですね。こうなるとぼくがあまり考えなくても。機械的に作業を進めるだけで物語がすんでしまうわけです。とにかくあったであろう尺をこうやって並べていって、フィルムとの相談でまちがいないよといわれたら、それがいつのまにかパッと定尺になっていた。この感じです。
だからぼくが全部まとめましたなどというほど、とてもうぬぼれられない状態なんです。監督としてのぼくの立場がどこにあるのか、かなりあやしくなりました(笑)。でも、作品と対話ができるようなとっかかりをつけることができたという意味では、ぼく自身にもそんな力があったのかと思いましたね。フィルムが自己主張をしていることを、ぼく自身が見分けることができたのはうれしかったです。ぼくの独善だけでやったらああはならなかっただろう、そういう感じがすごくします。
そのせいかもしれませんね、あまり感動的な仕上がりになっていないのは(笑)。アフレコやダビングの演出的予定では、一生懸命映画っぽく、感動的にもりあげようとしていたのですよ。そうしたら、自分のなかで「ウソつけ」って(笑)。やっぱり事実の積み重ねこそが『ガンダム』なのだ、という結論になるわけです。
少なくとも、ぼくの作為はどこにあるの?というくらいにフィルムは別物として存在しています。ふつう、初号や0号のラッシュ試写はとてもコワいのですが、なぜか今回の映画はぜんぜんコワくない。どうしてかというと、全部自分の作為でおさめているわけではないから。きっとあのフィルムはちゃんとうまくやってくれているから、もう他人が心配する必要はないんじゃない、という気がすごくしています。えらく心配じゃないんですよ(笑)。
こうしたフィルムと直接に触れ合い、会話できる機会というのはなかなかないものです。作為、作為の連続でかためられた作品がものすごく多いですからね。だから、『ガンダム』にかかわったことで、作品と対話するという経験をすることができ、本当によかったなぁとつくづく思います。


オデッサ作戦までは時系列の再編はもちろんですが、削られた部分も多く、葛藤のなかで作られていたことが正直に述べられています。
TV版のオデッサ作戦部分を観直してみると、次々とホワイトベースを襲う過酷な状況が描かれているんですね。
「物資が底をつく(塩とか)なか、大規模な作戦への参加を強制させられる」、
「マ・クベの攻撃によりホワイトベース大破」、
「現場の士気が下がる」、
「疲労困憊に加え代理艦長を任命されて苦悩するミライ」、
端的にいうと”戦争の裏側”でしょうか。後のエピソードになりますが、コロニーレーザー建造のためジオン国民が疎開させられるシーンも描かれています。『ガンダム』を語る際、戦争を扱ったことをクローズアップすることがありますが、銃弾が飛び交う映像的エモーションにあふれた作品群が数多くある中、丹念に消耗や疲弊を描いたことは戦争ドラマとしても特殊なアプローチとして評価できると思います。
いわば作品の外堀となる部分ではありますが、これらが排除された哀・戦士編は青春群像の趣が強くなりました。「なんで戦っているんだろう……」という独白の挿入が象徴的ですが、おそらく、監督の初期構想では”アムロの主観”が浮き彫りになる予定があったかと思われます。でも、そうはならなりませんでした。ブライトがミライに八つ当たりするシーンの挿入にみられるように、先に挙げた戦場の疲弊が他のキャラクターから出てきます。アムロ以外のキャラクターのストレスが随所で拾われていき、その結実としてカイのエピソードが活きてくるんですね。
注目したいのはこれが無手勝流に作られたという証言です。多様なキャラクターが各々の息遣いで世界観を構築していくのが魅力的な富野作劇ですが、これを方法論として自覚的に使っていくきっかけになった作品として位置付けることができるのかもしれません。
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