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富野由悠季の監督術 『機動戦士ガンダム ロマンアルバム復刻版 ロマンアルバム・エクストラ (42)』高畑勲VS富野喜幸

『機動戦士ガンダム』

高畑監督は同業者に辛辣なことで知られる富野監督がリスペクトを表明している数少ない演出家のお一人です。インテリであり、映像を分析的に見ることができる理論家の高畑氏に『ガンダム』はいかに映ったのか。
テクニカルな話が多いことに加え、資料価値の重要性も鑑みて全文を引用したいと思います。ご理解いただければ幸いです。

●単なるロボットものじゃない『ガンダム』

富野 ちゃんとお会いしてお話をするのは『赤毛のアン』以来でしょうか?

高畑 そうですね。

富野 しかも、『赤毛のアン』も最初のころですよね。ご一緒したのは……。途中、『ガンダム』に徹底的に引っ張られちゃったせいもありますけど、ヘンな話、『アン』やってるころというのは、ぼくはそろそろ高畑さんに嫌われはじめた時期でもありまして……(笑)。

高畑 そんなことありませんよ。

富野 だけど、なんとなくそういう気というか、危機感みたいなものは、ぼくのほうにはありましたよ(笑)。

高畑 いやあ、そんな……。

富野 『ガンダム』みていただけましたでしょうか?(笑)。

高畑 全部をビシッとみたわけじゃないのですが……。最初みたのは、TV放映の終わりごろだったかな。
ぼく『セロ弾きのゴーシュ』というのをやってたときで、そのころぼくの助手をやってくれていた人が――その人、『ガンダム』ファンなんです――「あの『ガンダム』って、いわゆるロボットものと違うんだ、違うんだ」って強調するんですよ(笑)。べつにぼくが「ロボットものだ」っていったわけじゃないんですけどね(笑)。
富野さんが総監督とか監督をやられた作品というのは、じつは見たことがなかったんです。ですが、一緒に仕事をしていただいているころの富野さんから推察すると、あなたがいわゆるメカものとか、ロボットものを、そのままで作品化する人じゃないとは思ってましたよ。
ただ、『ガンダム』以外の富野作品をほとんど見ていないから、ま、比較しようがないんですけど……といって、比較してもしようがないですね。

富野 正直、ぼくは比較するもんじゃないと思っております。比較じゃなくて、一本一本で何をやったかっていうことが、作品をつくる上で大切なんだ……じつはこれ、高畑さんから教えてもらったことですよね(笑)。とにかく、比較論だけで話を決められると、困るんですよね。

高畑 そうですよね。

富野 また、『ガンダム』の映画に限っていえばですね、比較もさることながら、同じように困るのは、「映画としてみた場合どうなのか」と見られることですね。
要するに映画・『ガンダム』というのは、はっきりいってTVのツギハギですから、”映画”というレベルでいえば後ろめたいことばかりですからね。

高畑 TVシリーズを劇場用にするというときにはいろいろな問題が生じますよね。『ガンダム』をあまりみてない立場でいうのは失礼だけど、劇場版化することで多すぎる戦闘シーンを切り捨てて、富野さんの出したい意図をTVの場合よりストレートに出せるという可能性はあるんじゃないですか。ま、ちょっと無責任な言い方かな、TVのツギハギがいかに困難かを知らないわけじゃないし……。

富野 いや、まさにその点が問題なんです。ですが、こういっちゃなんですけど、展開論を前面に出してしまうとですね、その戦闘シーンを核にした方が楽なわけです。だけど、本当はムロン人間を追っかけたいんです。戦いが日常という状況のなかの、人間を描きたいのは当然なんですね。演出家のハシクレならば。
が、フィルムの尺数の問題なんかを考えると、そうもいってられない事情がありますしね。ただですね、高畑さん、ちょっと暴論かもしれませんけど、今回、無理矢理ツギハギ映画をつくったというのは、ぼくの本音でもあるんですが……『ガンダム』が映画になるなら、とにかく自分でまとめたいっていう気持が一番強かったんです。キザな言いまわしといわれてもいいですが、テレビアニメを映画化するにしても、やっぱり最後まで、テレビアニメの仕事をしている我々の側、つまり手元に作品を置いておきたかったんです。

高畑 それはよくわかります。TVを映画にする際、実写畑の人間がコミットすることは、当たり前だみたいな風潮がありますよね。

富野 そうなんです。『ハイジ』もいろいろあったみたいですけど、『未来少年コナン』が映画化される状況をみても、ぼくは、とてもじゃないけど放置できないっていう気分にさせられたんです。ですから、たとえ売名行為といわれようと、とにかく、この『ガンダム』の映画化に際しては、絶対、実写畑の人間に渡しちゃならないと思いましたね。

高畑 それは売名でもなんでもないですよ。要するに主張ですよ。たとえ制約されている状況があったとしても、主張すべきときは主張するのが当然ですよ。

富野 そう思いました。ですから、『ガンダム』がTVでオンエアされてるときに、ぼくは会社(サンライズ)に正式文書で申し入れたんです。
「将来、『ガンダム』が映画化されることがあった際、その監修なり監督というカタチで外部(実写)の人間を導入するなら、フィルムを渡さない」って(笑)。ものすごい不安感があったんです。そのころというのが、ちょうど『コナン』が映画化されたあたりえすよ。もう、ひたすら、ガードしなければならないと思ったんです。
だから、おかげさまで映画・『ガンダム』はツギハギにもかかわらず、なんとか客の入りもいいみたいですから、本当に良かったと思うんです。
もし失敗していたら、やっぱりアニメ畑のやつらにはやらせるもんじゃないとタタカレルでしょうし。

高畑 いや、本当に良かったですね。

富野 でも高畑さん、これが二年前だったらぼくだってそんなに強気には出れなかったでしょうね。
ま、去年あたりのアニメ映画にも実写畑の人が起用されてますけど……それ以前の『ヤマト』もそうですし、『ガッチャマン』なんていう、本来つなぎようのないものをとにかくエイヤッとつないで映画館にかける状況をぼくは目のあたりに見てますからね、ムカつくんです。

高畑 なるほど……。ぼくは、『ヤマト』に桝田利雄さん、『地球へ』に恩地日出夫さんを起用したということをきいただけで、ああ、事大主義だなァって感じただけで、それ以上もそれ以下もこだわりがありませんが。

●スタミナが第一に要求されるアニメ界

富野 ぼくは思うんです。本来、表現というものはパターンのなかから生まれないと。たとえばTVには、始め引いて、その次に右肩なめ、左肩なめ、そしてバスト・アップに行きましょう……この繰り返しではドラマはつつがなく完結し得る、といった演出論があるんですね。これがリミテッド・アニメの場合はもっと極端で、はじめに一発、位置関係のロングがあったら、あとは全部アップでいいだろう(笑)ですからね。ぼくはそうじゃないだろうと思いながら、具体的に絵ひとつのフレームでまとめていくときに、もう十年以上もこんなパターンでTVアニメの仕事をしてきたんです。させられてきたというか……。

高畑 いや、あなたは、そういう型にはまっていなかったですよ。そういう意味では、富野さんのコンテはかならずしも整然とはしていなかったんです。けれども、何を表現したいのかっていうことはチャント出てるわけね。いわゆる職業科された、システム化されたコンテマンからはうかがえない意欲っていったものが感じられましたね。一緒にやってたころ。
TVやっていくには、とにかく一人じゃ何もできない。しかし、一つの方向づけに沿ったなかで、たくさんの人がさまざまな、さっきいった意欲とかセンスをぶっつけ合えばすごいものができるかもしれない、理想ですけどね。
基本には、コンテマン・システムなんておかしいと思うんです。けど、富野さんみたいな、表現したいって意欲のみえるコンテなどを出されると、すごくうれしい。そういう意味でぼくのやってきた仕事は、いつもチームワークに支えられてきました。理想じゃなくて、いやホントに、すばらしいチームからうまれるすばらしい仕事っていうのが現実に期待できるんです、あなたは、それをぼくに予感させてくれた一人ですよ。

富野 それは誉めすぎです(笑)。でも、コンテマンがあんまり表現意欲をムキ出しにするのも問題なんですね。職能的にも、監督が何を意図しているのかを汲みとってコンテを切っていかない限り、コンテマンの立場ってのはあり得ないと思うんです。コンテマンの自己主張よりも、あくまで、監督の意思の体現を優先させるべきだと思うんです。
でも一方では、本来表現というのにはセオリーはない、ということを高畑さんから教えられましたからね。

高畑 ぼくはね、コンテをやるにしても何にしても、それぞれが表現でなければならないと思っているんです。ところがそうでないコンテなり、演出なりがけっこうあるんです。でも、映画っていうのはそういうものを断片的につなげても一種の表現をなしちゃうんで……。

富野 そうですね。

高畑 たとえば、アニメーターにきいてみればわかりますが、何を表現しようとするのかよくわからないコンテがたくさんあるわけです、現実に。よくわからないけど、ま、描いてみたらちゃんとつながって、何となくつなげてみると映画になっちゃう……映画っていうのはそういうところがあるんですね。

富野 ありますね。

高畑 また、尺が少ない場合に、少しでも迫力を出したいを思ったら、やたらとファオローを使えばいい。それをどんどんやれば、全体を通じて何を表現しようとするのかわからないけど、それでも映画になっちゃう。
それから、トラック・アップというのがありますね。寄っていって何か新しくみえるわけでもないのに、アニメなどでも表現として多用されますが。

富野 でもホント、なんとなくつないじゃえば、なんとなく表現っぽくなって、映画になっちゃうっていうのは、『ガンダム』でも感じました(笑)。というより、『ガンダム』の映画はまさにそれの真骨頂なんですよね。つなぎゃあとにかく話ができちゃうだろうっていうふうな……。

高畑 それは極論でしょう。

富野 いや、本当にそうなんです。どういうことかといいますと、高畑さん、TVのビデオをご覧になってお判りのことと思いますが、『ガンダム』のように、あれほど使い回し(バンク)が多いフィルムっていうのは古今東西ないと自負(笑)しているくらいでしてね。各ショットをね、あれぐらい物理的なひとつの×として置いた作品というのはまずないと思いますよ。つまり”表現”なんてしていないんです。
しかし、制作体制が極度に弱体化していて、能力などないぼくをはじめとするスタッフがいた場合、そのなかでどういう自己主張ができるかといえば、物理的に、ワンショット、ワンショットをサインというか記号だという置き方しかできないんです。要するに表情じゃないんです。ましてや表現じゃないんです。とにかく置いていって、つなげていって、せめて話の骨格だけは伝えようというだけのことなんです。
ですから、ぼくはあんまり大きい声で「オレは監督だ」とか「演出家だ」なんていえないんですよ。

高畑 ま、結局、自分に与えられた条件のなかでしか仕事はできませんよね。しかもその条件というのは、だいたいが制約というカタチで出てきます。しかし、とにかくそのなかでやるしかない。というより、逆に、そういう制約のなかで、それでも、ものをつくれる”条件”をこっちでつくっていく……これも仕事のはずなんですね。
けど、条件が悪くなってるときに、一体、このシリーズで何をやるか……方向転換とか修正などを含めて、それなりにやるしかないわけですよね。
ま、投げ出しちゃう人もいますけど。

富野 でもおおむね、テレビをやってる人ってのは忍耐強いというか、スタミナがあるというか、がんばりますね。

高畑 スタミナという点でいえば、それはもうそのとおりです。

富野 現場スタッフに対しての状況セット・アップする場合、作品に対しての思い入れが欠けたまま制作に入っちゃうものですから、どうしても劣悪な条件のなかでしのいでいかなざる得ないわけです。
それはもう、絶対スタミナがなきゃあ、日本のTVアニメの現状のなかでは生きていけませんよね(笑)。
才能よりスタミナかもしれませんよ(笑)。

『ガンダム』になぜ黒人が出てこないのか

高畑 話はもどりますが、TVシリーズを劇場版にする場合、結局TVシリーズの文脈を離れることができないという制約があるでしょう。莫大な量のフィルムがあって、みてもらいたいところがそのなかにいっぱいちらばってる。なのに、全部をいったんバラバラにして、見せたいところだけでまとめるなんてことは不可能なんですね。ツギハギもできない。だいいち、アニメの各ショットは、偶然性をまったく写しとっていない。表現の多様性が期待できないんですよね。ちょっと順番を変えて置きかえてみたところで、新たな表現が出てくるワケじゃありません。アニメには実写よりムダがないんです。

富野 ムダというか、あいまいな絵ってあるようでないんですね。これは、さっきいったアニメは記号化になってるっていう特性にもつながると思うんです。ですから、当然ですけど、アニメにドキュメンタリーなんてありえないんですよね。
『ガンダム』でいいますと、絵の位置づけというか……つまり、いい絵を選んでつなげることのむずかしさを思い知らされました。『ガンダム』ファンに怒られますけど、いわゆる”名場面”みたいなところを、涙をのんで切らなければならないつらい作業も当然でてくるんですよね。

高畑 そうでしょうね。

富野 定尺に合わせて、セリフをもう一度つくり直すとしても、とにかく”名場面”といえども、ツギハギにはかわりないのですから、なかなかうまく合わせられないんです。あ、ここんとこでブレスがあって、ここんとこでセリフを録って……前のブレスが一秒半、次のセリフが三秒……やっぱり合わないなァ、じゃ、セリフ変えなくちゃ(笑)。こうやって何回も何回もセリフ変えても、時間は合っても、ピタッと表現できるセリフって出てこないんです。絵がツギハギですし。

高畑 ところで、『ガンダム』の劇場版で上映時間は?

富野 二時間十九分です。

高畑 それは長いですねェ。

富野 ええ、なんだかんだいいますけど、すごく気持ちのいいもんですね、(笑)。そういう快感みたいなものがあるから、映画にして悪かったなんてことは全然思ってません。
いま、アンケートでもらった葉書が二百通ばかり手元にありますので、いま読んでるところなんですけど、見事に、賛否両論です。でも、いろんなところからさまざまなこといわれることは覚悟のうえでしたからね。たとえば、今度の映画は一部なのに、なぜそれをうたわなかったのか……とかですね。

高畑 アニメーターの絵のトーンが変わってたとか、直しとかツナギで新しくつかった絵でね。

富野 アニメーターの絵のトーンですか?それはもう、すばらしいくらいの変わりようでして(笑)。安彦(良和)君のキャラなんかもすごい変わりようでしてね。ま、宮崎(駿)さんとか、大塚(康生)さんなどがおやりになる作品にはそんなことは絶対にないでしょうけどね。

高畑 変わるほうが普通ですね。

富野 アニメーターには非常に酷な仕事であったことを強調したうえで申しますと、さっきの表現の問題からも(絵が変わるということは)絶対あっちゃならんことなんですよね。絵が変わるということは、要するにキャラクターが変わることにつながりますから、演出の立場から言っても容認できません。けど二年も時間が経ってますし、アニメーターだって同じところにとどまっていませんからね。
そうだ。この席でぜひいっておきたいことがあったんですよ。このロマンアルバムというのは、『ガンダム』のファン向けの本ですから、ひとつ承知しておいてほしいのは――前にいったことと多少ダブルかもしれませんが――今回の映画のつくり方っていうのは、本来のものをつくるつくり方でいったときに、決していいつくり方じゃないってことなんです。たとえばあるファンはこういってました。
「新しいところの追加された絵はきれいだった。」誉めたつもりなんでしょうけど、ぼくは全然うれしくないんです。本当は、きれいに見えたらいけないんですよね(笑)。前のフィルムのなかに埋め込まれなきゃあダメなんですね。

高畑 それはいえますね。……あの、話がヘンな方向にいくようで申し訳ないけど、あの『ガンダム』の最初のほうを見たときに、いま地球上にいるさまざまな人種がちりばめられていないなと、まず感じたんですよ。どうなんですか、そのへん。

富野 世界中の人間の顔っていうと、それはないですね。

高畑 たとえば黒人とか中国人はまったく出てきませんね。

富野 黒人がいないのは当然です。人種差別の問題とかかわりますし、下手にとりあげたらテレビ・コードに触れますから。

高畑 そんなことないよ。『009』にだって黒人が出てきて、ちゃんとTVで放映してるじゃない。『ガンダム』の時代がいつの頃なのかは知らないけど、いやしくも、”地球連邦”みたいなものができているとするならば、その構成員は世界中の人種を網羅しているというふうに設定するほうが、自然なんじゃない?

富野 『ガンダム』のはじめの設定にはあったんですが、さっきいいましたテレビ・コードなどの問題……

高畑 それが良くわからないなァ。でも、ぼくがいまいったような、『ガンダム』には人的構成に問題がある、みたいな議論は出なかったんでしょうか、どこかで。

富野 それはありません。そのへんは落っこってますね。

高畑 それはどうか知らんけど、ぼくはやはり世界連邦みたいなことになったら、逆に、人種がかたよって出てくる状況のほうがおかしいと思う。

富野 もちろんそうです。

高畑 『コナン』みたいな時代設定なり状況設定ならまだしも……ジオン、でしたっけ、あの植民地にだっていろんな国から人間が集まっていてもおかしくないし、集まっていないのなら、たとえば「ジオンていうのは、じつは旧ヨーロッパ勢力だ」ということかもしれないし。
いずれ、もっと意識的にそのへんをセッティングしたほうがおもしろいんじゃないかという感じはしましたね。

富野 基本的な設定のなかでは、当然、まんべんなく人種配合が行われていたという想定はしているんです。ただ、そうはいいながらも具体的な想定でいうと、いまから百年ぐらいで、そこまで均一化するというのはやや辛いなと思いましてね。また、ストレートに、人種がはっきりしているような部分でのアツレキみたいなものも問題にしたいと考えたりはしたんです。

高畑 いや、その時代は差別がある世界かもしれないし、あるいはない世界かもしれない……。

富野 いずれにしても、ロボットものというだけで放送コードの問題が生じる可能性がありますから、人種問題がウンヌンなんてことは通るワケがない。だから反故にしようと決心したんです。

高畑 でも。反故にするなら、かえって、人種的な問題が解決されていないというふうに考えたほうが正しいんじゃないですか。逆に、黒人なり中国人と一見してわかる人たちも登場したほうがよかったんじゃないかと思うな。

富野 それはそう思います。

高畑 そうでなかったら、やっぱり人種問題は解決していないんだと思いますね。『ガンダム』には日本人とヨーロッパ人だけしかいない。ほかの国の連中はどうしたんだ、ということになりかねない。

富野 まったく正しい指摘です。
結果的に『ガンダム』は、そういう問題をよけて通りましたからね。リュウ・ホセイなんてキャラは、じつは当初黒人想定で設定をはじめたくらいなんです。
でもですねェ、高畑さん、このテレビコードってのは厳然とあるわけですよ。たとえば虫プロ時代の『ジャングル大帝』のときものすごくもめたことがあるんです。あの作品の舞台はアフリカ大陸なんですが、当初は黒人が出てきません。「黒人を出すな」という投書がきたからということで、テレビ局が自主規制し、製作サイドに”条件”としてハネ返ってきたからなんです。こんなの信じられますか、高畑さん。

高畑 信じられません(笑)。

富野 これはもう、実際あった話です。

高畑 アメリカあたりでも、そういう偏向した(人種の)配置ってのを排除してやってるでしょう。たとえばテレビ映画でも『セサミストリート』などは典型だし。

富野 日本の場合、そういう現実があることは事実なんです。『ガンダム』のケースで、こういうことがありました。シャアっていうマスクをしたキャラクターがいますね。あれも当初の予定では額に傷つけていたんです。「額に傷」ぐらいじゃ、いくらなんでもひっかからないだろうと判定したわけです。どうしてかっていいますと、あの松本零士さんの『キャプテンハーロック』で一応認知されてたはずですからね。が、第一稿のキャラクターを局の方に回したときに、即ストップがきたんですよ。
「あの額の傷は、身体障害者を連想させるし、またあの人たちをを刺激してしまう」とね。これで全部おしまいです。

高畑 へェー……。局は徹底的に逃げ回るんですね。
逃げるだけなんですね。
ただね、それでもぼくはこだわりますね。『ガンダム』ではやはり、地球上にはいろんな人間がいるんだということを意識させるべきだったとね。とくに、いまの日本人に。飢えとか、人種差別とかがいっぱいあって、それらの問題を克服、解決したうえで世界連邦というのができた……解決しなきゃあり得ないんだっていう意味での想像力を、ティーンエージャーに呼び起こしてもらわないといけない感がするんです。ちりばめているだけでいいんです。問題を真正面から扱わなくても、意識させるだけでもね。基本的に、我々は有色人種です。唯我独尊の欧米人とは違いますから、その事は忘れないようしなきゃならないと思います。

富野 本当にそうですね。



直感的に言うと恐縮と困惑ですね。生徒が教師から採点をしてもらっているようで、なかなか面はゆいです。
対談は映画化の話題から入るわけですが、時代背景を補足しておく必要がありますね。70年代後半というのは、TVアニメを総集編にした映画が流行っていたんです。ブームの発端は『宇宙戦艦ヤマト』の映画版のヒット。これをきっかけにアニメ総集編映画が量産されることとなり、富野作品からは『海のトリトン』が、高畑作品からは『アルプスの少女ハイジ』、『母を訪ねて三千里』、『赤毛の少女アン』がスクリーンに映されることとなります。しかし、対談でも言及されているように編集は実写監督によってなされたため、アニメ制作スタッフが蚊帳の外におかれる事態となっていました。宮崎駿作品の『未来少年コナン』に至ってはストーリーの改変が行われ、宮崎監督による抗議文が公開される事態にまでなったそうです。それゆえ、『ガンダム』はアニメ制作者に主導権を留めたという意味でアニメ史的価値を持つ映画なわけですね。
富野監督のパターン化したモンタージュへの反抗(『Zガンダム』制作時、佐藤順一氏が描いたコンテで会話シーンに肩なめの切り替えしを使うことすら苦言を呈した逸話があります)は独自のコンテ技術の洗練に大きく影響したと思いますが、一方で監督の意思を汲むコンテを是とする、このバランス感覚ですね。高畑氏は表現という言葉を使うことからもうかがえるように総合芸術としてのアニメーションの価値を理想としていますが、富野監督は環境論や状況論を前提としたうえで各論としての演出論が来る。高畑監督はその後、TVシリーズの仕事を退いていき、富野監督は逆にTVをホームグラウンドとしていくわけですが、この差はスタミナ論とは別に、作家性を優先させないよう技術者の視点でテコ入れするバランス感覚がひとつの要因になったのではないかと思えます。高畑監督がアニメの偶然性の無さを制約的にとらえている発言に対し、コントロールできないもどかしさで返すあたりの齟齬なども分水嶺と見ることができるかもしれませんね。
アニメーターの絵のトーンの話は、後に『新訳Z』をつくることを思うと違和感を禁じ得ませんが、実は、富野監督自身で新旧の作画が混在することの弊害は認めてはいるのです(『機動戦士Zガンダム A NEW TRANSLATION -Legend of Z-』巻頭言)。それを免罪符にすることはできませんが、特定の環境や状況の中で作らざる得ない仕事師としての一面は、そろそろ受け手の側に評価基準として確立されてもいいのではないかなと思ったりもしています。
さて、問題は黒人未登場の件ですね。『ガンダム』は少年の成長の機微を痛いくらいに繊細に描写したリアルなドラマとしても高い支持を得ていたわけですが、世界観の説得力において稚拙な印象を受けるというのはかなり”痛い”批判です。「人種混合が行われていた」と予防線こそ張っていたものの、正直、歯切れの悪い受け答えになっているのは否めません。推測ですが、対談にも出てきた『009』等の先例があってもなお消極的にならざる得なかったのは、やはり虫プロ時代の『ジャングル大帝』の一件がよほど心に残っていたということでしょうか。『ガンダム』は、富野監督の乾坤一擲というべき勝負の作品でもありました。それゆえ、障害要因のオミットにナーバスになり過ぎたということはあるかもしれません。ただ、世界観のリアリティよりキャラクターの肉付けやドラマ作りに注力したという意味では、創作における優先順位が働いたとも受けとれます。
その後の『ガンダム』シリーズでは、シャアが額に傷をつけたまま再登場を果たし、アフリカ民族の紛争を扱い、第一作の不備を補完するかのように社会的マイノリティの存在が提示されます。これが高畑監督への返歌だったかは定かではありませんが、ファンタジーの趣を排除し、現代社会との地続きを実感させる「それっぽさ」が『ガンダム』ワールドに入ってきた象徴として見ることができるのかもしれません。
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