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富野由悠季の監督術 『機動戦士ガンダム (ロマンアルバム・エクストラ―アニメージュ・スペシャル (35)』富野喜幸×永井一郎

『機動戦士ガンダム』

故・永井氏といえば高い声質と講談を彷彿とさせる言い回しでコメディリリーフを演じられることが多かった印象ありますが、こと本作においてはスーパーサブとしての活躍で、戦争をテーマに扱っていながら悲壮感に陥らないようアクセントをつける難しい仕事を見事こなされたと思います。
引用は対談の半分ほどになりますが声優論に止まらず業界への問題提起まで多岐に及んだ大変興味深い内容になっています。

アニメのスタッフ構造は異常

富野 「ガンダム」から手を離れて半年ほどたつわけですが、その間、いろいろな媒体を通じて、いわゆる”ガンダム論”を語ってきました。そういう意味では”ガンダム論”は語りつくされたといってもいいのかもしれません。で、こんどロマンアルバム編集部のほうから、何かしゃべってくれといわれ、考えあぐんだ末の帰結が、いっそ、全体論的な視点でガンダムを論じてみようということだったんです。そこで、永井一郎さんとの対談を思いついたわけです。ぼく自身、声優さんは重要な制作スタッフの一員だと思っていますし、意外や、演出家と声優さんとのこういうカタチでのディスカッションて皆無に等しいんですよね。ですから、きょうの対談は画期的な企画だと自負しているんですがねェ(笑)。

永井 なるほど。そういわれればそうですね。アニメの制作過程っていうのはハッキリしていて、フィルムを作る、出来あがったフィルムに声を入れる……つまり、制作スタッフの仕事の場所が明確にわかれていて、個々のスタッフ――とくに制作現場と声優との交流ってないんですね。音響制作のスタジオなどでも、総監督あたりが約一名ほどいらしてくれッる程度で、まず話す機会がないんです。

富野 そうでしょう。私を含めて、アニメの演出をする人の”失敗”とさえいえることだと思うんですが、演出家でアフレコに立ち会う人ってあまりいないんですよね。基本的には、ダビングまでが(演出家の)仕事だと思うのですけどね。制作スタッフってそういうもんじゃないでしょうか。よく、音声とか、演技の”エ”の字も知らないけど、絵だけはわかる、といった人が、演出をしている場合が多かったんですよね。つまり、そういう土壌が、制作現場と声優との間の意思の疎通を欠く要因ともなっていると思いますね。ぼくはそのへんの所もね、こういう対談などを通じてファンを含む外部の人たちに知ってもらった方がいいと考えるんです。

永井 たとえば、絵がアフレコに間に合わないときってのがしょっちゅうありますよね。本来、ぼくら声優ってのは絵がないと(アフレコを)できないですよ。しかし時間的事情でやらされる。さて絵が完成する。ここで困っちゃうわけです。ぼくらからいわせると。たとえば絵が100点、セリフ60点、平均80点の作品にみえちゃうんです。ところが絵をかく人は、セリフは完璧ですとおっしゃる。つまり、絵をかく人はセリフの微妙なニュアンスをおわかりじゃない。ちょうど、ぼくらが絵をわからないようにね。そこで思うわけです、絵もアフレコもわかる人がいればなァって。

富野 そうですね。本来演出家っていうのは、絵とセリフの両方を理解するというか、つなげる職能を有する人であるハズなのに、現状は、どっちかに比重が片寄っている人が多いんですよね。今まではそれで良かったかもしれないけど、ちゃんとしたフィルムをつくる時代になってきた以上、そろそろ一考を要するんじゃないかと思うわけです。はっきりいっていまのTVアニメのスタッフ構造っていうのは異常とさえいえるんじゃないでしょうか。

永井 東映動画は作画監督が音声の監督をやってますよね。

富野 ええ、あすこは昔からそうです。要するに実写畑からの伝統なんでしょうね。

永井 とにかく、監督ってのはタイヘンなんですねェ(笑)。

富野 タイヘンというか……本来なら監督は全部何から何までみなくちゃならないんでしょうがぼくなどの場合、録音には録音監督がいるということで、かなりこだわりながらも任せざる得ないと考えているんです。

永井 こだわるんですか?やはり。

富野 というのは、ぼくの場合アニメーターあがりの監督じゃないでしょう。ですから、せめて音の部分はカッチリ演出しておきたい、そうしないと持ち味っていうか、アニメーター出身に対抗できないようなところがあるんです。とはいえ、絵の部分もしっかりみたいことは事実ですよ。ですけど、たとえば日本サンライズのシステムでも、一本(話)ごとの担当演出がいますから、いきおい自分があんまりいじっていない話数ってのがでてくるワケです。つまり、絵に対してかならずしも責任をもっていないんです。そうはいってもなおかつ、どこかルートをつけようという意識をもってやると、かなり敏感になることは事実ですよね。

永井 うんうん。そうね、監督ってどこらへんで決定を出すかという決定力……換言すれば、妥協する線をどこかで引くかっていうことが重要なんでしょうね。

富野 というより、かなり割り切ってる部分てのがぼくにはありますね。それと”あと””さき”で演出することになっても意地だけはみせたいんです。アト、サキというのはどういうことかというと、まず、一本の絵をつくっていくためのコンストラクション(構成)の部分で、こちらの主張が明確になるような絵の配列がなければならないというのがありますね。で、仕上げで、たとえば、このヒドイ絵とこのヒドイ役者を……失礼!(笑)つきあわせて、さあどこで折衷案をみつけるか?もしできることならヒドイ絵とヒドイ役者で相乗効果を期待したいのだが……といった、スケベ根性を含んだ、まんなか無しのアトサキで帳尻を合わせるということです(笑)。

永井 声優をセレクトするとき、富野さんもしっかり関わるワケでしょ。

富野 関わるといっても、ぼくが担当した作品てのが「ザンボット3」「ダイターン3」「ガンダム」とたかが3本ですからね、デカイことはいえません。「ザンボット」のとき、まず耳に慣れようと決心しましてね。キャスティングのシフトを本気でやらせてもらいました。おかげで、声優さんの名前と声の特徴があの時点ではじめて一致しましたけどね(笑)。あそこで、永井一郎という、ぼくにとっての声の教師を知るわけです(笑)。

永井 え?教師?まさかァ(笑)。

富野 いやホントです。「ザンボット」で永井さんを選んだのは、永井さんは声のオールマイティだからです。永井一郎という札をおさえておけば、キャスティングの基準ができるんです。フラットに基準になりうる方だという意味です。つまり、永井さんに声優を教えてもらったんです。以来ぼくは永井さんを中心において声優との関わり、また、その効果を考えながら音づくりをしてきたってのが実情です。むろん「ガンダム」もそうだったワケです。で、やっと最近になって声優さんの重要度というか、効果というものがわかってきました。


ポスト「ガンダム」が見えない

富野 「ガンダム」をつくり終えて、これだけ時間がたったいま、おおざっぱな印象でいえば、まあいいフィルムだったと思います。しかし、見直して、厳しくチェックすれば……というより自分のもっている観念からすると、あのフィルムは30%ぐらいしか認められませんね。制作中の時点では、アニメーターをはじめとする現場のひとたちも彼らの能力を一生懸命出してくれたと実感してましたし、また事実よくやってくれました。けど、いまにしていわせてもらえばぼくの主張とは全然違うんだという部分があって、極端にいえば、絵が一応並んだだけといった印象もぬぐえないんです。

永井 ずいぶん厳しい見方ですね。

富野 いや、そうはいいましてもね、べつの機会のすばらしい条件のもとに仕事ができるチャンスを与えられても、やっぱり50%以上満足する作品はつくれないでしょうね。開き直るワケじゃないですが、アニメ制作の過程のなかで、監督のもちうる決定権なり判断力がそこまで見通してできるかというと、できるワケがないんです。くやしいけど、あれが限界だったんですよ。

永井 つねに状況の中での決定だからね。でも、仮りに完成度の低い作品でもある程度いいたいことをいってる監督ってのは評価されなければならないと思いますね。絵は30%のデキでも、いってることが60%だったら大成功じゃないですか。富野さんはそういったタイプじゃないの?

富野 さあそれはどうでしょう。ただはっきりしておきたいことは、ぼくは理想主義者じゃないってことです。理想主義はある意味敗北主義者なんですね。理想主義でモノゴトが完徹することはありえないと思うんです。理想主義になった瞬間からモノゴトがはじまらなくなるんですよ。コレ、ちょっとにヒルっぽい表現ですかね(笑)。

永井 いや、しぶといって感じですね(笑)。

富野 理想主義者って、最初からいいわけを用意してるでしょ、挫折したときのね。逃げ道を作ってますよね。ぼくはそれがイヤなんです「ガンダム」に関していっても、逃げたいことがいっぱいありましたよ。あやまることだらけです。でもぼくはそれでもいいやと思うワケ。全部見通されて、結果論でいわれたら、そりゃ悪いとこばっかりで、いいとこなんてありゃあしないですもの(笑)。でも、そんなこんなをひっくるめていえば、ま、恥もかいたけどやってよかったなァと思ってるんです。

永井 そう、思い出はいいところばかり覚えてりゃいいんですよ(笑)。

富野 思い出はいいんですが、問題はこれからですよ。「ガンダム」をつくったことで、さて次に何をやらなくちゃいけないのか……まったく見えないし、わからなくなってるんですよ。これが一番困った問題なんです。

永井 それはそういうもんですよ。みんなそうだと思います。わからないですよ。

富野 でも悔しいなァ(笑)。先がみえないってことは…なにせニュータイプじゃないから(笑)。

永井 何かを終える。ファンに何かを出した。また、自分にも何かをつきつけた。その何かをわかるには、たぶん、提示された何かをファンが整理する時間と同じくらいの時間が必要じゃないですかねェ。「ガンダム」のあと、また「ガンダム」と同じものをつくれば別ですが……(笑)いずれ、ゴソゴソやりながら壁にぶつかって悩んでいるうちに、おのずと突破できる何かが出てくるんじゃないでしょうか。

富野 フィルムってのはすごく生理的なものなんです。送り手の生理が露骨に見えてくるものなんですよ。だから「ダイターン3」のあと、また「ダイターン」的なものはとてもつくりたくなかったんです。”遊んだ”あとは”シリアス”にといった、欲求不満解消策(笑)で「ガンダム」はうまれたんです。そういういことで、ホントをいえば「ガンダム」のあとは、また「ダイターン」的なものをつくりたかったんです。「イデオン」じゃなくてね。

ホンモノのアニメ評論家はいない!

(略)

富野 ひとつ「ガンダム」に限らずアニメーション全般にいえることですね。ま、評論家の方がどういおうが、それぞれの見方ですから……でも私は、視聴者より先にむしろ、我我と同世代の人たちに、アニメに関わっている私たちの存在なり、作品なりを知って欲しいというのが一番の思いですね。そうでなければ(アニメの仕事など)とっくの昔にやめてますよ。まじめにアニメにとりくまないですよ。恥じてますよ。さっき永井さん、『目玉の松チャン』のことに触れましたね。そこで私は思うんです。『目玉の松チャン』の時代、活動大写真なんて文化人のみるものじゃないみたいな状況がありましたよね。しかし、以降半世紀以上たって、活動写真は見事に市民権を獲得しました。一方、アニメなんて、ディズニー以降、たかだか30年ぐらいの歴史です。が、その30年で、活動写真が100年近くかかって経過してきたものを消化してしまったような気がするんです。タイヘンなことですよコレは。だから恥じないで仕事をしていきますよ、私は(笑)。

永井 ぼくは声優をやってるけどね、いま恥じないですよ。すごくいい仕事をやってると思ってます。

富野 そう思っていただけると、ホントにありがたいですね。麻上(洋子)さんじゃないけど、アニメが好きで声優になっちゃったみたいな人っていいですねェ(笑)。

永井 ぼくは最初はちっとも好きじゃなかった……。

富野 そりゃそうでしょう。永井さんの年代でアニメが好きだっていう人はウソですよ。アニメなんかなかったんだし。

永井 でもいまは好きですね。ハッキリいって、アニメをバカにしながら声優をやってる人って多いです。しかしぼくは、役者ってのは一体なんなんだっていうことを明確につかんだのは、声優をやってからですね。舞台やってカラダ動かしてる時は自分でつかめなかった。マイク外しちゃいけない、カラダを動かしちゃいけないといった制約の中で、なおかつ全細胞に全神経を集中させなきゃ人間の声が出せない。ということをわかって、はじめて役者の仕事を理解しましたね。昔、新劇とか映画畑のエライ人で「アテレコはバスガールの仕事である」と断じた人がいましたけど、とんでもないことです。全細胞がひとつの目的で動くことが役者の仕事なんですよ。これをぼくは、声だけ発するよりしようがない制約の中で発見しました。

富野 なるほど。しかし、演技論からいくとカラダが動いて演技……肉体の伴わない演技は演技と認められないということになりますけどね。

永井 いや、そんなの演技論じゃないですよ。くだらない権威主義でしかないですよ。でもね、ここで間違ってもらっちゃ困るけど、とはいってもね舞台を経験しなければ、全細胞がひとつの目的で動くなんてことはないものねだりになるってこと……声優に必要な反射神経、場面々々のこなしなど……対応できませんね。もう、カラダを動かす勉強をしなきゃ声優なんてムリ。声優になりたいっていう人はたくさんいるけど、声だけ訓練したって使えないですよ。声優学校でいくらやったってダメなんです。自分の体、細胞の動きを知らなくちゃあ……。ヘタな役者は声優できないです!「声優バスガール論」なんて、アホカッ!ですよ。


富野監督のアニメ業界に対する意識改革の提言は今では当たり前のようにインタビュー等で見受けることができますが、当時は、自身も仰っているようにアニメーター上がりでなく演出一本で監督になったキャリアの人間ですのでようやく得た発言権だったはずです。そこで提起される演出家のテリトリーの問題。演者とのコミュニケーションがウェートを占める実写映画と違い、分業体制の中で画作りを主な仕事しているアニメーション演出家にとって役者の演技にまでコントロールが及ばないことへのフラストレーションがかなりストレートに出ていますね。
絵の完成度に対する妥協意識は、その後、幾度も発言することになるわけですが、あくまで諦観ではなく音も含めた総合的なバランスのなかでの位置づけを模索しているところがポイントです。敗北主義と自虐的に言っていますが、むしろ実利からみた戦略論の色合いが強いといえるでしょう。アニメにおいて”主”である絵を相対化せざる得ない状況を強みにまで昇華させたことが一時のトレンド監督で終わらなかった「しぶとさ」につながったと思います。
妥協を余儀なくされる仕事のなかで自分の「持ち味」を目指した音響管理ですが、やはり意表を突くのは永井氏をキーパーソンとしたことですね。主役クラスではなくバイプレイヤーを基準にすることで、逆に主役クラスの冒険的なキャスティングに踏み込むことができたのではないかと推測しています。永井氏は声質やアクセントも含めてどちらかというと癖が強いけれど演技にブレがない安定感が持ち味の声優でした。この名バイプレイヤーが外堀を埋めていなければ俳優や歌手等、幅のある人材起用は難しかったのではないでしょうか。
対談は、高い理想を持っていながら現実主義でしか仕事をしかできない環境の富野監督の屈折に対して、声優業への矜持を意気軒昂に語る永井氏の熱弁の応酬といった感じですが、後半、ちょっと見逃せない流れになっています。永井氏の声優論に対して「肉体性」の重要さを反論としてあげる富野監督。富野作品において「肉体性」がキーワードになってくるのは90年代からだといわれていますが、思えば本作の最終回でアムロとの剣戟シーンにてシャアが放ったセリフ「ニュータイプといえども体を使うことは訓練しなければな!」、これなどは後の情報化社会の万能感へのアンチテーゼと地続きにも感じられますね。このあたりは今後の資料精査の際の課題になるかもしれません。

※余談
本書はスタッフによる一言コメントがあるのですが、演出の関田修氏によると、演出の貞光氏が体調不良の際富野監督が自身の家庭菜園から取ってきたキュウリやトマトで野菜パーティを開いたとのこと。これも後の『ブレンパワード』を想起させてマニアとしてはニヤニヤですね。
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