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富野由悠季の監督術 序文

富野由悠季の名前が日本のテレビアニメ史において欠かすことのできないものになっていることに恐らく反論は来ないでしょう。
テレビアニメ黎明期から活動し始めたそのキャリアはすでに50年の歳月を超えました。その間に作られた作品群は多くの人々を魅了し、そして、その感動を言葉にしようと様々な人々が彼の作品の論評を盛んに続けています。
また、彼の人となりについても興味を引かれる人は少なくなく、その人物像についても話題に事欠きません。
評価は大きく分けて三つになると思います。
まずは、独自の戯作理論を確立し、現代的主題を物語に織り込む果敢な”作家”として。
また、広い学識と見識で社会に革新的な文明論を投げかける”文化人”として。
あるいは、過激な言動と多彩な表現で惹きつける異端の”アイドル”として。
私自身これらの評価の多くにシンパシーを感じ、時に学び、時に新たな発見に喜びを感じます。
ですが、一方で一抹の疑問も禁じえません。それは”アニメーション監督”としての評価の少なさです。
アニメーションは様々な人々が集まって織り成す総合芸術です。ただのワンカットの中にも多くの才能が携わっています。これをいかに「画」として「映像」としてまとめるか、彼の仕事の核心ともいうべき監督術について理解をされていないのが現状ではないでしょうか。
ただし、これは富野評だけに限ったことではありません。映画評のプロフェッショナル達にしてもいまだにシナリオ評論が大半を占めています。無論、彼らを貶める意図はありません。一般大衆の興味は「物語」です。需要に応えるプロとしては正しい姿勢でしょう。
しかし、「テーマが良ければいい映画なのか?」「映像評ではなくシナリオ評ではないのか?」といった声はあったはずです。受け手のリテラシーを信頼した映像評はそろそろ開拓されてもよいのではないでしょうか。
「技術としての映像」、これを見る眼を養えたら、より映像を、アニメを、富野作品を楽しめるのではないか。このような期待を少なくとも私は持っています。
そこでこのシリーズ記事において、過去の文献に当たり作品の制作現場に携わったスタッフの証言を基に富野由悠季の仕事の作法を明らかにしていこうと思っているのです。もちろん富野自身の技術面での自己分析や消極的評価も外すわけにはいきません。
”作家”でも”文化人”でも”アイドル”でもない”アニメーション監督”富野由悠季。きっと新たな発見に満ちていることでしょう。
ご覧になられた読者の方が今一度富野作品を観直す際のささやかな楽しみを提供できるよう努めてまいりたいと思います。
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